ひめごとよ、永劫なれ

 幾度かの雪が降り、積もって。いよいよ本格的な冬が近くなってきた。これから確実に、氷点下はどこまでも続くというのに、毎年の事ながら、この時期を辛く感じとるのは、急激な気温の変化に、身体が馴染んでないからなのか。
 慣れてしまえば、こんなこと一々書かない。如何ともしがたく、寒くてしょうもない。寒い。寒い。寒い。
 相変わらず、1日24時間では足りない。地面下にて、また色々と動きだそうとしています。詳細は追って。今年もあと1ヶ月となった。来月の事を考えるにも来年だってね。来年と言えばなんだか随分と先の事のようにも思えるのに。なんだか、あっというまな1年だったけれど、まだ今年は終わってはいない。1分1秒、限界まで、余さず追い込んでいきたい。
 感覚が麻痺する、というのは、果たしてどういう心地なのだろう。そう思いながらも、知らないうちに意図もせず、麻痺していることだって、少なからずあるように思う。そうでもしないと、到底やっていけない事もあるかもしれない。心の平穏を願うことを正当化する根源と考えてみれば、良くもあり悪くもある。例えるならば、この街で冬を重ねてみると、温度感覚なんて容易に狂ってしまう。ほんの少しの氷点下でも、まだ暖かい方とさえ思えてしまう。平均を超えてみると、そもそも平均、例年通り、というものが何なのか、よく判らなくなってしまう。寒空の下で、じんわりと身体の熱を奪われていくみたいに。感性を過剰にしていくことで、いろんな感覚を麻痺してしまうのだろうか。私はいままでどれだけの感覚を麻痺して生きてきたの、麻痺せずに生きていられたの。ただ、どんな経験をしても、どんなにこれからが豊かになろうとも、現在という瞬間、愛という感情、色々とありますが目には見えないかたちで大きく育まれる、その感覚だけは、人間として決して麻痺したくない。純粋に、大切な人を大切にするということ。いつまでも。忘れてしまいたくないな。それが、残された無知への感受性であり、未知への可能性というもの。
 ずいぶん前に死んでしまった人のことを、ある日突然ぼんやり思い出した。ずっと実感が沸かなかったから、今まで涙さえ出なかった。しかし、ある日自然と、その人はもういないのだと、判ってしまった。もうどうにもならない、絶望を受け入れてはじめて、その人の死を実感した。そしてようやくその人に涙を流した。おかしいけれど、そこからその人と、本当の意味で「友達」になれたような、気がした。
 今じゃもう遅くて、早すぎた。存在しない人々に、手をかさねて。
 はじまったばかりの冬に、春を乞う。
 今年の冬も、きっと。長くなりそう。
 いまは、穏やかな音と共に、眠ろう。
 ひめごとよ、永劫なれ。そっと、ひっそりと、佇むように。