不安定なテレパシー


 この街にもようやく桜が咲いて、やがて散ってゆきました。
 春模様はこころ模様。いつだって、そう。うららかは束の間で、不安定な春だけれど、その中にも揺らぐことのない光のようなものをひとつ見据えてる。平常心のフリして発信するテレパシー、高まる鼓動はひた隠し。
 怒濤のゴールデンウィークも過ぎたあとも、17日はカジノに行って三度目の来旭となったチョモランマ・トマトのライブを楽しんだり、また先日は久しぶりに旭山動物園へ遊びに行ったりなど、何かと濃厚な5月の日々を過ごしてます。同等に仕事も正念場で、その影響で行く予定だった釧路に行けなかったのは唯一の惜しみ。能動的なのか受動的なのかはよく判りませんが、ひょっとして私の知らないところでタイミングを合わせているのかな、と思ってしまうほど一斉に、様々な方面から、いろいろな物事が絶え間なく動きだしていて。そんな偶然の連鎖に驚き、ひとつひとつが微笑ましく、たくさんの嬉しさが込み上げてくる。鼓動が高まるのは、きっと飲んでもいないお酒のせいかな。
 不可視なものは、容易に人から人へと広まってゆく。どんなに手の中で封じても、指の隙間を伝ってするりと零れていってしまう。それは良い事も、悪い事も、ほんとうのことでも、嘘でも。目に見えないから余計に誤解を生じるのも一瞬で、だからこそ、慎重に大切に扱ってかなきゃいけない。ただ、ひとつの視点から感じ取ったものはそれは一辺の主張に過ぎず、すべての真意の判断には値しない。疑念でも故意でもなく、ひとつの視点から見ると無意識下で当事者の都合のいい風に誇張されたまま伝わってく場合だってあるのだから、ありのままを見通すのは、他の視点からいろいろなことを感じ取って、視界を広げてから見極めた方がいい。自戒も込めて。どんな誤解も、対話をする事ではじめて解かれるものだし、すべての本当は、あらゆる手の中にある。
 どうにかなりそうなこと、どうにかなってほしいこと、どうにかしなきゃならないこと、どうにもならないこと、どうでもいいこと。頭の中はどうしてもこんなことだらけで、どうしよう。わたし平常心のフリするだけで、精一杯。