嵐の夜に恒星のシードル

 外は暴風雨。息が出来ないほど強く、轟々と吹き荒れる冷たい風雨に煽られながら、歩いてモスキートへサッととんぼ返りした火曜日の真夜中。雨はやがて雪へと変わっていった。帰り道、こんな荒れ模様の夜も、なんだか潔く気持ちが良いものだと思う。シードルを買って家に戻る。家でお酒を飲む事なんて滅多にないけれど、気持ちよい嵐の夜を歩いていると嗜みたくなったのだった。久しぶりに飲んだシードルは、星空の味がした。嵐の夜は、シードルでも飲んで遠い宇宙に隠れている星たちを思いながら、嵐が通り過ぎ去るのをじっと待ちましょう。
 深く覆われた道ばたの雪もすっかり溶けてきて、長い冬の間に圧雪されて排水溝が歪んでる。うっかり落っこちてしまわないように気をつけよう。まだ風は冷たいけれど、春も近い事だし、自転車をだした。しぶといものでまた雪が降ってしまったので、乗るのは先延ばしになってしまったけれど。これで行動範囲がぐんと広くなる。去年の初雪前は体調を崩していたので乗り納めもままならなかったから、今年はたくさん自転車に乗りたい。川辺に飛来している渡り鳥たちを見に行こうか、春だものね。
 当たり前のように晩ごはんの時間まで遊んでた子も、次第に大人になって、いろいろな制限が無くなり、夜遊びを覚える。子どもの頃には楽しんでいたはずの遊びも大人になれば飽きたらなくなり、子どもにとっての大人の遊びは遠い夢のなか。しかし、大人だからといって制限がないわけでもなく、子どもだからといって制限があるわけでもない。子どもには子どもなりの自由と不自由があって、大人には大人なりの自由と不自由がある。ただ、あのころの憧れと、いつかの懐かしさを抱きながら、時は流れ、遊び方もルールも年相応に変わってくる、それだけに過ぎないのかもしれない。ルールは常に人生と共にあり、責任は徐々に自分自身へと傾く。アイデンティティの確立ともいいますか、生きてればものの考え方も様々に変わってくる。けれども、日々はまだまだ知らない事に溢れていて、いつどうあろうと刺激は降り掛かってくるから、アンテナは高く伸ばしておいた方がいい。その中で、如何なる喜怒哀楽も、自分なりの現在として楽しむことが出来るのなら…大人になることって決して悪いことではないじゃない?
 歳月を重ねてゆく毎に、かけがえのない人達がどんどん増えていく実感が、なんだか近ごろ特に著しい。遠く離れていてもいなくても、ふり返ればいつも傍にいて、そっと背中を押してくれる友達。何気なくふとした瞬間に私の事を思い出してくれたり、気にかけてくれたり、近況を知りたくて連絡をくれたり。この思いが一方通行でないことを願うけれど。目には見えないそれはきっと、信頼、とも言えるのだろう。そのひとつとひとつの信頼に、私はじんわりと嬉しくなる。
 生きるのってとってもフクザツで、決して楽しい事ばかりじゃない。時には苦しいことも悲しい事もある、落ち込んで感情に捕われそうになって、草臥れる時もあるけれど。そんなときは、好きな歌でも口ずさめばその悲しみはきっとかき消される、はず。底知れない自虐を謡いましょう、めいっぱいの、明るい顔でね。
 ところでゴールデンウィークの予定はもうお済みですか?5月1日はモスキでDJをすることになりました。お待ちしてます。詳細はまた近日に。