透明人間は夢をみるか

 最近どうしよう、が口癖になりつつあるから、どうしよう?
 何を探しているのかもよく判らないのに、何にもない場所で延々さがしものを探してるような、気分だ。こないだやっと微熱が治まったのに、また微熱続きでどうしたものでしょう。昨日はあまりに身体がだるくて寒くて、挙げ句の果てにひっくり返された亀みたいになってたから、病院に駆けこんだ。熱冷ましを貰って休んだら、今日はすこし落ち着いた。なんだかもう熱慣れしてしまった、至って大丈夫だけどうんざりしてる。今わたし微熱でうかうかしている場合じゃあないの。微熱に構ってる暇なんて、これっぽっちもないの。
 そう、なんだか、私今やらなきゃいけない事がたくさんある。まずはとにかく東京に行くにあたってそろそろ本腰入れて準備を進めなきゃ。東京のことを思うと、嬉しくて、ハッピーで、キュンとして、楽しみで、ドキドキして、不安で、ワクワクして、緊張して、そわそわして、どうしよう。どうしよう?どうしよう。こころが忙しくて、落ち着かない。そんな毎日。もうすぐきっと、正念場。私にとって、旅をすることは、知ること、そして感謝を向けられる機会と思ってる。
 今回はそれだけじゃなくて、体調を崩すという事は、自分が尊敬する人や大切なたくさんの人達に、多大なご心配やご迷惑をおかけしてしまうと昨年の入院の一件を経て、痛感していて、それに対して、心底から恐縮の思いがある。その人達の為に、私が出来る恩返しは、元気な姿で再会することだと思ってる。心配してくれた人たちに、笑顔で再会すること、それが私が出来るせめてもの恩返し、です。
 素晴らしいひとたち。私にはたくさんいるけれど。大切な人、尊敬する人、大好きな人に、ほんの少しでも見合うひとになれたら。なんて、思う。
 微熱に浮かされてるせいか、近頃おかしな夢ばかりみる。夢の中で、人々はみな透明人間になっていた。そこは、人間が肉体を持たない世界。然れど五感はしっかりと透明人間に保たれているのだった。故に周りの生活の音は聞こえていも、どんなに人間が近くにいても、ただ、姿だけは見ることが出来ない。見えない目の前にいる誰かが、透明であることは、これほどラクなものはない、と諭した。しかし、透明人間であることで、人々の存在証明は崩壊する、人間が肉体を持たないのは、やはり少しさみしい事だ、と言葉を返した私は反逆者となった。追放間際で目を覚まし、寝ぼけ眼で手のひらをじっと見つめ、不透明な自身の肉体を確認し、夢であることに安心した。それから、透明人間は夢を見るのだろうか、見るとするならその夢の中でも人は透明に映るのだろうか、とふと思った。
 夢であれ、と思うこと、或いは夢じゃなければ、と願うこと。日々眠りから覚めるとき、どちらかに支配され、かわるがわる不規則に繰り返されていく。けれどもいつかは、夢だけど夢じゃなかった、と思える日がきっとくる。そう、私は願ってる。
 いまから百八年前、旭川は最低気温-41.0℃を記録した。百八年前の人々はどう乗り越えたのだろう。比べて歳月を越えた現在は暖かいのだろう。けれどもね、いまは今でヤバいかも。何かが、狂いはじめてるの。日常を何日間、何時間、何分間、何秒間のなかで考えてしまうから、つい生き急いでしまうけれど、何百年と考えればなんてこともない些細な事なのかもしれない。何億光年先から見渡せば、どうって事もない小さい事なのかもしれない。けど、既に、歯車はまわり始めてる。
 考えたところで、もうどうにもならないことばかり考えてしまう、就寝前。ようやく忘れかけてたけど布団の中に入ると、最近またフラッシュバックする。眠りの入口がなかなか見当たらない。SOSが届かない。眠たいのに眠れないなんて苦しい。もういいのよ、もういいの、私には何にも関係ない。構わないから構わないよ。こんなことで落ち込んでもミットモナイ、すり減らす生命力がもったいない、やり場の無い怒りがもったいない、枕を濡らす涙がもったいない、吐きだす溜め息がもったいない。わたし必要ないと思ったところで、大切な人たちを悲しませるだけだって、判っているのに。拭いきれない怖さ、おぞましさ。でも、乗り越えてかなきゃ。私は私の果たさなくてはいけない事がある。それだけで精一杯なの。だから、このままじゃいけないよ。
 このままじゃあ、いけないんだ。