鹿の剥製と焼きそば

 この秋一番に迎えた金曜の夜。一週間の仕事を終え、カジノでコヌマbros.を観る。
 昨年、札幌で観て以来の二度目だけれど、六年前モノクローム・オミタを旭川で観た時のことを思い出した。ちょうどその頃に発売されたオミタの1st音源が好きで、レコ発には旭川札幌と足を運んだものです。そのときはまだ札幌のバンドだったけれど、歳月が経ち、たとえ今は活動拠点や編成や名前、音楽自体が変わったとしても、以前この街でライブを観たあらゆるバンドの人達が、変わらずにバンドとして動き続けていて、再びこの街に来て現在のライブが観る事が出来るのは本当に嬉しいこと。それは、どのバンドに対しても私はそう思うけれど。
 だからこそというか、今回旭川で観ることが出来たコヌマbros.には感慨深い気持ちで。とても素晴らしいライブでした。二人編成ということで、勿論オミタとは音楽も表現も変わってはいるけれど、名前そのまま小沼兄弟が持つ独自のセンスは健在のまま、尚且つ、音に生活感がぐんと増したような気がした。
 観ながら、生活の死角、という言葉が私の頭に浮かんだ。何気なく日々を暮らす中で、例えば、いつものように自分の家へ帰ることとか、いつも通る道を歩くこととか。そんなさり気ない風景や何気ない動きにも、死角がソコカシコにあって、特別気に留めないからこそ、見えないものや、気付かないことはたくさんある。コヌマbros.の音楽は、それらが染み付いて疼いているように思えた。
 その日の打ち上げでは、六年越しに小沼兄弟のお二方とお話が出来た。そして、新しいライブ音源を私のディストロでも取り扱いさせて頂けることになりました、こちらもまた素晴らしい作品です。相変わらず私のパソコンの調子が悪く、作業に遅れが生じウェブ上にはまだあがっていませんが、近いうちに。私がディストロを始める前からよく聴いていたバンドの人達と、こうして歳月を越え、お話しする機会があり、現在動いているバンドの音源を、私のディストロで取り扱う事が出来るのも、嬉しいことだと思う。これもまた、どのバンドに対しても私はそう思うし、これまでも何度とそう思ってきた。続けていくことの意義とはこういうことなのかもしれない。そのひとつひとつの機会が、得がたく、本当に有難いこと。
 夜も更ける帰り道、モノクローム・オミタの1st音源を聴いた。音が流れ出す瞬間に、この作品を手に入れたばかりの六年前の冬が、まざまざと蘇る。
 その音と共に鮮明に浮かぶその風景は、山中にある大学周辺の壮大すぎる程ひたすらに真っ白い景色。凍てつく空気。肌を刺す吹雪。異常な寒さに打ちひしがれながら、待てども待てども来ないバス…。当時、私は大学生だった。勿論、まだアイポッドの類を所持してはおらず、故に現在のように、聴きたい音楽を瞬時に聴くことを持ち合わせる事もなく、出かける前にCDウォークマンで1日1枚のCDを選びながら日々ささやかに音を楽しんでいた。六年前の冬、この音源を手に入れてからは、しばらくのあいだ通学時によく聴いていたものです。オミタが鳴らす音楽と言葉とリズムは、冷えきった体に心まで突き刺すようでもあり、あたたかくもあった。
 その感覚に懐かしさを覚えながら、家に帰った。
 この他にも、あらゆる音源を聴くごとに、思い出す心象風景がそれぞれの音楽にある。例えば、そのバンドのライブを観た時とかもそうだし、その音源を手に入れた、或いは、頻繁に聴いていた時期に、聴きながら合致した風景だとか、自分にあった出来事や心境や人間模様を、ふと思い出すことも多い。その心象風景を喪失していないのは、そこに音楽があったからなのかもしれないし、その音楽を素晴らしいと思うのは、その心象風景を心の片隅に残しているからなのかもしれない。作り手にしても、聴き手にしても、音楽は日常生活と交わることで更に深みを増していく。それは、これからもそうでしょうね。生きている限りは、ずっと。
 物思う日々に、静かな部屋でぼんやりしていれば、鼓動ばかり増長するようで、胸が締め付けられて適わない。だから、その音楽を再生し、そっとその静寂と切ないを散らすことで、心臓の速まりを紛らわす。
 いつかその音楽と共に、いまのキモチをふと思い出すことがあるだろう、
 そう思うと、いまから甘酸っぱくなる。
 そして、これからの9月は、18日から22日のあいだ、旅に出ます。行き先は東京と山形へ。東京へは19日に大塚ミーツ、山形は20日に蔵王で行われるフーアーユー。どちらも楽しみだ。また、行こう、会いに行こう、また会いましょう。心象風景となるような、素晴らしい秋にしたい。
 写真は、近所のスーパーの前に何故かいた鹿の剥製と、カジノにはいるはずでライホーライブ中の現代・小鹿の痕跡。