生き物をあつかう

 夏の終わりを原稿の仕上げで過ごした、必死に机に向かうその姿は、完全に夏休みの最終日、泣きながら全ての宿題を片付ける子供の頃へ回帰した。どうやら、その体たらくのまま大人になってしまったようです。格別今に気付いた事でもありません。何はともあれ、全ての原稿は無事に完成。明日送ります。
 例えば、こういった文章を寄稿させて頂く機会とか、ライブをし終えた時とかにも言えるが、何かしらをやり遂げたその瞬間こそ体力的には完全燃焼したとしても、喉元過ぎて熱さを忘れてしまえば、まだまだ私はやれるな、とか、こんなもんじゃあない、とか、寧ろやっぱり私はまだ何にもやれていないな、とか、そんな事をいつも思う。例に漏れず今回もそう。もちろん、努力の承認を下すのは自分自身では決してないと思うし、私は頑張った、とか言うのも非常に気持ちが悪い、傍から見れば全然頑張れてないだろうに。そもそも、努力という言葉が私はあまり好ましく思えない。頑張った、と自らが言ってしまえば、そこで全ておしまいな気がする。
 私はそこで終わらせたくはない、
 このまま何にもやれてないのに終わらせるわけにはいかないでしょう、
 その感覚を持ち続ける事こそが自分のモチベーションを保てていけるのかも。
 印象に残ることは人それぞれにある。ひとつの出来事にしたって、私が強く印象に残っている事は、誰かにとっては忘れてしまっている事でもあったり、誰かが強く印象に残っている事は、私にとっては忘れてしまっている事でもあったりする。諸行無常。だからこそ、お互いが覚えている、ということに私は嬉しさを覚えたりもする。この日記で言えば、よく過去の日記を遡って読んで頂いた方から、過去に書いた内容を話題に持ち出される事がたまにありますが、当の本人はその内容を書いたことすらも忘れているので、ときどき誰かしらに言われて、ああ、そういえばそんな事も書いたか、と思い出すことも多い。実際、私自身は過去の日記を遡って読むこともないし、もし読んだとしても恥ずかしさの余り体が縮こまります。かと言って、過去の日記を削除する気にもなれない。その当時の考えは今には変えられない事だから。人間の考え方は、様々な経験でどのようにも変わっていく。過去にそう考えていたことは紛れもない事実だが、今はそうじゃないことだってある。それも経験と成長。日記は書き手が書き続ける限りは生き物、だと思う。文書を書く事は生き物を扱うくらいの重大な責任が生じる。読んでる方がどう感じ取ってくれても構いませんが、だからこそ下手な事は言えないなと思う。今回の原稿にしても、その責任の上で現時点の考えを詰め込みました。今はそれしか言えません。あとは、ファンジンが発行されて手元に届いてから、考えます。