空中からは見晴らせないだろう

 思いのほかに生き難さを覚えた、
 なんだかなあ。自分本位な欲深さをちょっとばかり見すぎたようで、どっと疲れた。
 人間はどうしてここまで欲深い生き物なのだろうか、
 そりゃあ、生き物にそれぞれ様々な欲があって然るべきものだし、あらゆる欲があるからこそあらゆる原動力が生まれるともいえる。貪欲であることを決して否定は出来ないし、無欲であることも決して宜しくも思えない。もちろん、私自身を差し置くわけでもない、私にだって欲は確かにある、たくさんありますとも。
 けれど、こうも傍観してみると、なんだか自分が欲を覚えることにすら辟易してしまいそうになる。ひとつの欲に支配され、盲目のままで暴走して、交差して、時に衝突して。何もかもひとりよがりで、色々なものが虚しいくらい置いてけぼりで。なんだか悲しくなってしまう。
 その気持ちはわからなくもない。結局、私も同じようなもんだ。
 さて。大変恐縮ながら予定より遥かに遅れをとっていますが、最近はずっとファンジン原稿執筆の追い込みへ向かっている。これまで半分ほど清書を完成し、ようやく出口が見えてきたところ。なんとか月末を目処に完成させる予定です。下手したら、というか進行状況をみれば確実なことだが、週末は24時間、テレビならぬ24時間机に向かう覚悟。救いようはちっともありません。
 それにしたって、別にこれまでにも文章の寄稿させて頂く機会だって何度かあったくせに、期日が迫ってくると毎度どうしてこうもピリピリしてしまうのか。伝える責任を前提にして感覚を言葉で表すのは日記よりもずっと脳を酷使する、なんてのは言い訳で、ただ単に学習しない、ということでしょうか。
 我ながら呆れるほど、本来より常に神経が張り詰めている状態で、些細なことに苛々しては、自分の器の小ささを痛感してまた腹立たしく思う悪循環の今日このごろですが、度量の広さも確かに必要。けれど、何を大切にするか、そういう本質的なものが、ぶれることがない器のほうが姿勢として重要なんじゃないか、とこの歳になってみて、そう思う。価値観を押し付けるつもりも更々無いが、生きてるうちに自分の中でどうしても譲れないものくらい少しはあってもいいだろうよ。ただ受け入れるだけなら甘えにしか過ぎず、そんなのは優しさでも何でもないわけです。ありのままの優しさは、もっと深いところにある。
 …そんなんだから、生き難く思うのだろか?