あらかじめ失われている遺失物かもしれない

 太陽はどこへ行ったのだろう、
 今年は冷夏だという。この街もご多分に漏れず近頃ずっと雨が燻ってばかりで、太陽の姿を久しく見ていない。体感的にも、印象に残る7月となっていくのだろう。
 暑さをなくした七の月は素晴らしく楽しかった、ふと気がつけばもう月の末。目まぐるしく駆けていた様々な出来事に、うまく形容できない感覚の中に心底からの嬉しさを見つけた7月。けれどそれは、あくまでも私の力では決してない、寧ろ私の力なぞ本当にちっぽけなものに過ぎない。与えられた、与えてくれたからこそ、こんなに素晴らしく思えたのかもしれない、得てしてそれはとてもかけがえのない。私はまったく、またも結局、どうしようもなく周りに支えられてばかりなのだろう。いくら有難う、と言っても伝えきれないけれど、その分、如何にして支えられているか、私には何が出来るかをよく見つめながら、私はこれからも進んでいけたらいい、進んでいこう。身の丈にあった意気地ナシなりに、不器用なりに、くれぐれもマイペースに、ね。
 自分を客観的に見ることは容易なことではないが、自分のことは自分ではやっぱりよく判んない。自分以上に周りの方が自分を知っているとさえ感じる。良くも悪くもそれはそれなのかもしれないが、誰かに言われて気付くことが私には多すぎる。それでも、私は一体どうかしちゃったんじゃないか、なんて思ってしまうほどの、思いがけない単純なモチベーションの連続に、ときどき途惑いながらも、そんな単純さも実は満更でもなく思う自分もいる。
 ぼんやり佇んでいても時間は狂いなく刻んでいくのだから、生活に立ち戻らなくちゃいけない。そんな7月の終わりの先日、何とはなしに本屋へ寄り道して、何とはなしに足を止め、そこに立てかけてあった本を、何とはなしに手に取った。
 それは、谷川俊太郎の「トロムソコラージュ」(asin:4104018058)という本。
 読み進めていくと、いまの自分を見透かすような言葉が散りばめられていた。もともと谷川俊太郎が発する言葉は、全てを読んでいるわけでもないけれど、生の体温も虚無も居心地がよくて、静が踊っていて。もともと好きなほうだが、この本にはかつてなく見透かされたような、ある意味で宝物を見つけたような衝動があった。浸透して、ふとした瞬間に腑に落ちていく、ことばのつらなり。今は、どうしても必要な本と出会えたときに使おう、と決めてずっと保管していた図書券と引き換えに、手元にある。
 もしも、1週間でも早く、1ヵ月でも遅く、同じようにこの本をふと手に取っていたとしても、少なからず好きな本となったのかもしれないが、いまとはまったく違った感じ方をしているのだろう、そんな気がする。
 だから、あのとき出会えてよかった。
 出会えた後にそう感じる事って私にはよくある。この本に限らず、何にだってそう。音楽にしても、人にしても。それが一期一会の巡りあわせ、ともいえるのでしょうか。
 そして、あらゆる再会があればまた、素晴らしいと思う。