海が母、雲が父

 母の日と父の日にちなんで、巷のアチラコチラに飾られたゼロ世代の子どもたちによる、それぞれの母や父の似顔絵で華やぐ風景をアチラコチラでよく見かける。私には毎年この時期に鮮明に思いだす、ひとつの思い出がある。
 それは私がまだ四歳の幼稚園児、母の日が間近に迫ってきた頃の話。通っていた幼稚園で母の日のプレゼントとしてお母さんの似顔絵を描きましょう、と先生に言われ、クラスの皆それぞれのお母さんの似顔絵を描いた。ここまではよくある話だ。私はその当時、割と単独行動派といえば聞こえは良いが、例えクラスの誰かに鬼ごっこしようと誘われても、自分が鬼ごっこしたくなれけばその誘いには絶対乗らず、自分が今遊びたい事で遊んでしまう、それが一人であっても全然厭わないほど、云わば呆れるほど協調性のない子どもでした。そうして、記憶の中では最も古い、私のお母さんの似顔絵を描いた時間。私はクラスのみんながそれぞれのお母さんの似顔絵を描いていく妙な光景をぼんやり眺め、いつもお絵描きしようよと誘ってもみんな結局ジャングルジムで遊びに行くクセに!みたいな、半ばイジケた気持ちになり、お母さんの絵を描きたくなくなった。その反面、お絵描きと粘土遊びと砂場遊びが好きだったので、みんなでお絵描きするという時間は、それはそれは至福の瞬間でもあった。けれども、お母さんの絵を絶対描きたくなかった私は、一人勝手に絵のテーマを変更した。
 テーマ変更、お母さんの絵から、海老の絵へ。
 そのとき私は、何故か、無性に海老を描きたかった。その頃お母さんから教えて貰ったブラックタイガー、という言葉の妙な響きを面白がっていたからと思われる。周りよりも少し遅れ気味に且つ勢いよく、描き始めた海老の絵。そして、先生が通りかかり海老の絵を描いてると知った瞬間、先生は慌てて私にこう言いました。
 なっちゃん、お母さんの絵を描くんだよ。
 私の母は海老です。と、どうしようもない言い訳のひとつ言えればまだ良かったものの、さすがにそこまでは思い付かなかった四歳の私。私はいま大変な事をしでかした、とそこでようやく事の重大さにハッとした。えーお母さんの絵描いてないの?とクラス中に広がる動揺。そして書き途中の、海老の絵。私が生まれて最初に心底慌てたのはこの時だったんじゃないかと思われる。焦りのあまり、私は画用紙のスミにお母さんの絵を描き足した。画用紙いっぱいに広がる大きな海老と、画用紙のスミに描かれた小さなお母さんの絵。それを見た先生の勘違いという名のフォローにより、テーマのマイナーチェンジを余儀なくされ、完成となった。
 完成。テーマ、海老をとってるお母さんの絵。
 ナイスフォロー、先生。しかし、とんだ巨大海老だ。そして迎えた母の日。先生のフォローという名の説明と共にその絵が母の手に渡り、絵を見たときの母の苦い表情を、私は二十年以上経ってもなお、忘れられない。
 その頃から、先生と母による、私の行動観察の交換日記が卒園時まで続いた。
 今思い返してみても、確かに私はあの時、無性に海老が描きたかったのだけはハッキリ覚えている。ちなみに、母の日の反省を踏まえたのかどうか定かではないが、父の日は海老を描く事無くちゃんとお父さんの似顔絵を描いた。が、隣で描いていた子のお父さんが眼鏡をかけている事を知り、何故か眼鏡をかけたお父さんいいなあ、とよくわからない憧れを覚え、私の父は眼鏡かけてないのに似顔絵では眼鏡をかけている。
 今もまだ、海老と母とニセ眼鏡の父の似顔絵と共に、行動観察日記は家に残されてあるので、たまに読み返すが、綴られてあるのは、我ながらほとほと理解に苦しむ当時の私の行動の数々。一番気になるのが、ブランコの角にぶつかってみたい衝動に駆られ、全力で飛ばすブランコに突撃して流血沙汰になるのが毎年1回はあった事だ。
 海老の絵を描いた前後、行動観察日記で母が書いたページに、こう綴られてあった。
 『家でも母の日のプレゼントを作ってたので、何を貰えるか楽しみにしていました。何を作ってるの?って聞いても、よくわかってないようで、「ヨーヨーみたいの」って言ってました。かわいい暖簾で飾っています』
 多分私は海老の絵を大きく描いてしまった事を子どもながらに申し訳なくなったのだろうね。暖簾を作ったのだそうです。そして、ヨーヨーみたいのはいずこ。
 そんな、思い出。