アンビリカルケーブルとへそ

 何とはなしにドアを開ければ、夏もすぐそこに近付いているのだな、と知る。
 大きな季節の到来を前に、時期に相応しい雷が鳴るから、私は怯える。いつまで経っても雷は自然の脅威、私にとってその恐ろしさは、何というか、敬いを超え過ぎて非常に恐ろしいという感覚。音というより光が辛い。雷はへそを奪いたがるそうだから、守るようにして逃げこむ。雷が修まり恐る恐る出てきてからは、何事も無くしれっとする。ところで、誰にだってへそがある、へそがあるから生物として生まれたけれど、緒を切り離され自力で栄養を補わざるを得なくなり長い歳月が経つ現在になってしまえば、果たしてへそって守るほど大事なのかな、と考えてみた。へそがないまっさらな腹を想像していけば、まっさら過ぎて気持ち悪くて違和感を覚える。人体の中心点と、かつての生命線。やはり、へそは大事だ、と思い改めた。
 そう、へそは大事。外見上の事だけじゃなくて、日々過ごす中で、思い煩って不安が心を立ち込めても、雷が鳴っても、どんな時だって、自分にとって譲れないものというか、守るものというか、芯ともいえるような、そういうへそは確かに持っていたい。自分の人生くらい自分で筋を通して責任を取るということ。
 気付けば六月も終わりに近いが、今月は従来よりも部屋に篭ってばかりの、ひたすら静かに祈るような事務月間。そんな中で、先週末は、感覚的に久々に外へ遊びに行ったような、いい気分転換になったと思う。バイタリティや想像力は外に出てはじめて生まれて然るべきものだ。まずは金曜日は仕事終わりにサブレイト3、出演4バンドそれぞれが起承転結を表したひとつの物語があった気がする。本物を見た。この一言に尽きて、これ以上の言葉はない。そして土曜日、札幌の野球が旭川に遊びに来て9ヶ月ぶりの再会。会うなり彼女の勘の鋭さに驚く。たくさん話をして、1ヶ月分くらい笑った。夜はモスキでのヴェイン企画に遊びに行ったが、そこでも笑ってばかりだった。
 先週末は、何かと得たものや思うことがたくさんあったので、家に帰ってから、残すは清書のみとなってたファンジン原稿の表紙デザインの下書き案を勢いで捨てて、もう一度最初からやり直す事にした。期待に添うものを自分の表現を思い切って出す勇気。簡単ではないけれど、今ならもっとやれるはずだ。
 みんな同じ時間上でそれぞれの時間を過ごしてる、自分の時間をどう生かすかは、結局は、自分次第でしかなくて、何事にも変えられない。同じ時間上で誰かのそれぞれの時間が交わるというそれだけでも、凄いことだ。今はまず何よりも純粋にもうまもなくの七月が待ち遠しい。夏の訪れが本当に楽しみだ。私の、あなたの、みんなの、素晴らしい夏となればいいね。
 何かとみんなすぐさま白黒つけたがるから、急き立って焦ってしまいそうになるのがとても怖くなる。白黒つける事自体は正しいと思う。いつか、何度でも、そういう時が来るのは判ってる。けれど、焦るのは簡単、結果ではなく道程。焦ってしまうその前に、人として尊重することを忘れたくない。しかし、うかうかしてもいられない。どうすればいいのだろうね。誰かは思い悩む今が一番楽しい時だって言ってた。それは私には判らない、判るまでも自分はまだまだ、あまりにも未熟であまりにも遠すぎて長すぎる。長距離走のように、これからも大切であり続けるのでしょう。
 永遠に生きるかのように学び、明日死ぬかのように生きてみる。私は私で夏を迎える前にやれる事をやる。磨いてこ、それもまた智慧になるということ。