月は太陽になりたがり、太陽は月に憧れる

 六月が始まり、何となく思い立って、そろそろと部屋の模様替えに日々と労力を費やした。苦し紛れに仕事を終え帰宅してはそろそろ繰り返し続けて7日間。ようやく落ち着いて、一新した空間の中に一人佇んでいる。何かに没頭しだすとたちまち自分の世界に篭りがちになるが、集中して頭の片隅で割とクダラナイことから割と真剣なことまで、何にせよ思考を巡らせる自体は私自身好きな事ではある。まあ、この一点集中を他の何かに生かせればいいのだけれど。心と体は一心同体なもので、逆に思考が止まれば調子も出なくなるので、多分、自分にとってたまには必要な時間なんだろう、と考えておく。それが楽しいかどうかは自分でもよく判らない。しかし、思考が深まるにつれ徐々にこの時間はある意味で修行のような、何か悟りを拓く為にあるような、そんな錯覚すらおぼえた。が、それはあくまで錯覚に過ぎなくて、本来は何も変わらない自分の居場所でもあるこの狭く閉ざされた空間で、何かしら大きな哲学や人生観を生み出そうとしたって新しさはここにはありゃしない、というこった。更に思考が深まる後半戦、気付けばだんだん自分の世界の比重が大きくなっていて、ふと外に出ればたちまち周りのスピードに上手くついていけず、必要以上に焦ってしまい、この状態はあまり宜しくないな、と感じた時点で、案外私は引きこもりには向かないのかもしれない。
 部屋を整理している最中、これまで頂いた手紙を収納しながら読み返していたら、なんだか懐かしくなった。読み返すと同時に、当時の相手の状況だけではなく、当時の自分の状況まで蘇ってきたり。今を照らし合わせては微笑ましくなったり、感慨深くなったり。出会う人や言葉によって、未来はいくらでも変化するのだなと思う。綴られたすべてどれもが、大切な言葉だらけでした。私は、手紙を書くのも読むのも大好きだけど、やはり手紙は、直接話をするのとはまた違った言葉の魅力が秘めている気がする。手書きに秘める力は侮れないもので。
 模様替えし終えた現在。続きましては、あるファンジンの原稿に向かうべく再び部屋に篭る日々へシフト。散る日記を読んでいる方から、有難くも文章の寄稿の依頼を頂いたわけですが、それだけではなくまさかの表紙のデザインもさせて頂く事となりまして、ディストロとか自分のもの以外でデザインのご依頼があったのは初めてなので、発信する責任というものを感じてもいる。その上で何かとデザインをこなす友人達が凄いなと思う。話を繋げればこちらも全て手書き。携わった以上は、少しでも良いものとなるように全力出して最善を尽くすつもり。
 原稿をすべて書き終えたら、また次と、何かとやらなくてはいけない事もあり、この留まらず予定に追われる感覚こそ、夏を迎える前の絶妙なアキュムレーションとエクスペリエンス。やる事に追われてはいるものの、季節の変わり目への耐性が無いのか、ぼんやりしている。が、そうこうしてれば夏はあっという間に来てしまう。夏を迎える前にやる事はやらなくては。進んでこう。
 先日、そんなぼんやりとした最中、物思いで何だか切なくなりながら仕事に勤しみ、ホトホト参って家に帰って、いつものように、まずハムスターだだがいる小屋を覗くと、だだが千切った新聞紙の切れ端が柵に挟まっていた。その切れ端をよーく見たら、
 「友達」と書いてあった。
 偶然とはいえ、些か、私にはだだから手紙を貰った気分になり、ひたすらに切なかった心が少しだけ丸くなった。心が弱ってくると些細な優しさもいつもより沁みてくる。
 少し判りにくいけど、小さな小さな友達から貰った、小さな小さな手紙がこれ。
 
 これを手紙と捉えるか、ただの切れ端と捉えるか、
 たったその違いだけで、大きな優しさと成りうるのだろう。