揺らぐ

 二十六の歳にして、最近になって、ようやく気付いた。
 多分、自身に降りかかる事に関して私は凄く鈍感なのかも、しれないね。思い返してみれば、子どもの頃からそうだな、なんて。きっと、頭のネジを母の胎内に忘れたんでしょうね。母のネジになるのならそれはそれでいいけども。まあ、決して何も感じたり思ってないわけでは決してなく、これでも自分なりにその都度、何かしらきちんと考えてはいますけども。ご期待通りかは定かではない。
 多分、お局様にとって一番面白くないタイプなんだろうな、何か嫌味とかお小言とかを頂いても、何が嫌味なのかも今のところちっとも判ってないもの。よって、チクリともしないし出来ない。というか誰がお局様なのかすら未だに知らない。これまで嫌味のつもりで私が何か言われていたとしても、割としれっと受け流してるじゃないでしょうかね、つまんないね。後になって居合わせた誰かに大丈夫だった?と心配されて、何が?とケロッと聞いて始めて置かれていた状況を知る、そんな事今まで何度でもあった。
 そもそも、自分が鈍感だと思ったのも、最近人から事あるごとに鈍い、激ニブだ、とよく言われるので、ふうん そうなんだ、と。やっと気付かされた事でもある。周りからしてみれば、如何に冷や冷やさせてしまったものか、大変恐縮ながら、一方割と何にも気にしてない人がここにいますが。しかし、自分には直そうにも直し方もよく判んないので、まあ、いいか。このままで生かせて頂こう。それが私かと。ただ、それに気付いた代わりに、これから自分に訪れる好機だけは逃すことなく、出来る限り察知して行動していけたらいい。好機逸すべからず。それだけで私は充分。
 たくさんのこれからは、予測出来ない出来事の連続。これまでもそうだった。
 うん。だからこそ、今を生きれる、のかな。なかなかそう簡単には、前へは進めないもの。足踏みをする時もある、後ろへ下がる時もある。振り向けば、一喜一憂を繰り返してばかりの、昨日と、今日と、明日。けれど大事なのは結果じゃなくて道程。だから、どうか、決して、自分のキモチを曲げない事、諦めない事、そして何より思いやる事だけは忘れちゃいけないよ。今は独りよがりで走る時ではなく、繋ぐこれからを許し合うために知って、何よりも、尊重する時。まあ、自分のような鈍い奴は、誰かに与えた事・与えられた事をひとつひとつ丁寧に自覚して向かい合わなきゃな、今私に必要なのは、自覚。何億もの人が生きる世で、遠くであろうとも近くであろうとも、会えた事がかけがえ無いことで、とても有難いこと。大切だからそう思えるし、これからも頑張れる。
 みんな、いつ如何なるときも、さまざまに心が揺れ動いてるんだね、
 揺れ動いているのだからね。