惑いの惑星

 如何なる転機はどんな形でも周りにいる誰かが与えて「くれるもの」だと常々思う。与えられた自分がそこから、どういった考えを持ち、どう動いて、これから何に繋げていくか。そこがはじめて自分次第の試されどころとなるのかもしれない。まずそこで何を大切とするかを明確に、真意をもって挑んでいくか。決して深く考える事なかれ。しかし、自我で走る事なかれ。如何なる時も。これまでにしても。例え偶然の連続から始まったものだとしても、みんなが「必然にしてくれた」という意識と感謝の思いだけは常に持っておきたいものだ。そして、私も誰かに何かの転機を少しでも与えられたらそれ以上何も言う事はない。
 約2ヶ月間の入院生活をしていた姉が晴れてようやく明日退院との報。本当に良かった。まだ若き姉の5年後・10年後の生存率が何パーセントだろうと、その宣告がどうであろうと、姉はこれから何十年も生きていくし、生きてくれなきゃ困る。そもそも生存率なんて健康な私にしてもあなたにしても言える事で、毎日誰もが必ずしも100パーセントとは限らない。だからこそ誰もが今は生きていかなきゃいけない。故にただの脅しとしか感じない。みんな生きてくれなきゃ困る、切に困る。
 旅まであと10日後に迫ってきた。ひとまず姉の事に関しては安心して向かうことが出来る。さすがに途惑いもあったが、私には私の人生がある、私はいま頑張らなきゃいけない事がある、悔いがないように行動する勇気を計らずも姉は与えてくれた。
 それにしても今になって思い返せば、この間に様々な出来事と思考が私の中でかつてより目まぐるしく駆け巡った。まあ苦労や苦悩なんて見せ物じゃないし、特に私のなんて絶対に人には見せたくないし、泣き言は手帳のみに極力留めるとして割愛するが、この2ヶ月の間で我ながら相当肝が据わったものだとつくづく感じる。とは言え、同時に自身の脆さも自覚したから、まあ決して弱くも強くもないけど中間でもないだろう、どちらかと言えば強くなったんじゃない?くらいの程度で。あくまで出来事は積み重ねて起きて今があるので、もし私が1年でも早く今と同じ出来事を経験してたとしても間違いなく心が折れてたし今のようには過ごせなかった事だけは判る。雲泥の差。だって、現に私はすごく元気だし、心の底から笑うことだって出来るんだから大丈夫。
 けれども、ある程度の肝が据わってないと生き難い世の中になってるんだろうね。先日化粧品切れて買いに行った時にお店の顔馴染みの美容部員さんとこんな事を話してた。まあ化粧品買いに来てるのにそんな会話かい、というのはさて置き。
 そうなのかもしれないね。