蛙と蛇

 イキモノ嫌が応にも様々な欲を持っているとはいえ、あらゆる時に人間の欲求が剥き出しの有様を客観的に傍観する瞬間があると、なんというか、良くも悪くもおぞましいような感覚に駆られる事が時々ある。不思議なもので、その度に、あーまたか、とハッとするけれど、この感覚が少し苦手なんだろうな、あくまで客観的な立場だと。
 勿論、すべてのあらゆる欲求が必ずしも悪だとは決して思わない。健全な生理現象は誰も否定出来まい。けれど、その場合によって感興が沸く様に、辟易する時もあるのは確かだ。どちらにしたって気後れしてしまうのもまた確かだ。結局は、その欲求は今の自分じゃ到底適わないという事、なんだろうね。蛇に睨まれた蛙には便乗する余地すら与えられるわけが無い。
 当然、そんな自分にもそれなりに欲求は備わっているんだし、逆に考えてみれば、自分の欲求を有りのままに誰かに傍観される状況というのもそれなりにあるんだろうな。と、その姿を想像しただけでも見事にシラけたから、くれぐれも冷静でありたい。無欲もまた欲求、逃げ場の無いジレンマ。いつだって蛇に睨まれた蛙。
 まあ今になってみれば、剥き出しの欲求に取り憑かれるあまりに我を忘れて逆切れする人間ほど怖いものはないな、と心底肝を冷やした。ギラつく盲目は傍から見れば醜態に過ぎない。自分も気をつけなければ。それでも構わない時もあるが、何にせよ、今の自分じゃ到底適わない。届きもしない。ただそれだけだ。
 時間は戻すことは出来ません。残酷ですが戻りません。欲があればそれだけ、時に人間を惑わす事もある。けれど、いつかの為の前人達は揺るぎが無いから。そんな言葉でも思い出せばいい。そして帰るところへ帰ればいい。私はもう寝る。
 そんな事を思いながらも、思考は一刻よりも速く進んで、まったく別の事を考えだす。その後を追うように、綺麗に奏でられた音を聴くことで平穏を取り戻し、弾む鍵盤と足取りを合わせながら小気味好く外を走った。打ち付けられるリフも綺麗な旋律も、これまであらゆる音に散々心揺さぶられたけれど、一度でいいからこんな綺麗な旋律を弾いてみたいもんだな、とふと思う。、、まあ、それは無いだろうね。私が弾いたところで不協和音にしかならん。ところで、私は今までそこまで考えてなかったけれども、不協和音が人の耳に届いたとき、そこから何が生まれるんでしょうか?