底から這い上がる微かな力

 師走。忙しいという実感はないのだけど、日光を浴びる事があんまり無い生活で、何故だかすっかり時間の感覚を見失っている。多分、クリスマスも誰かに言われない限り判らないまま過ぎていきそうな予感がする。それはそれで構わないけども。
 一応、ミクシイで書く日記とここで書く日記の使い分けはしているつもりで、どちらも同じようにインターネットの回線を通して自分の言葉を好き勝手に発信している事には変わりないのだが、何がどう違うのかと言えば、自分自身の意識の違いだと思ってる。
 例えば、おおまかに言うと、ミクシイの場合はSNSシステムの性質上、読む人が限られる。しかし、読む人は確かにいるし、それに対する反応も身近に感じることが出来る。そして、ここの日記の場合は、制限なく読もうと思えば誰でも読む事が出来る。が、あくまで不特定、誰が読んでいるのか発信側、つまり自分には殆ど判らない。もしかすれば読んでいる人はいないという事も考えられる。故に、それに対する反応は一歩引いた所になりがちだ。どちらにもそれぞれ利点と不利点は確かにあり、それを変える事は出来ないが、始めたばかりの最初のうちこそ悩まされたものの、それを踏まえてバランスよく使い分ければ、どちらかに偏らずに不自由なく巧く使いこなす事が出来るのかもしれない、というのが続けていって判った、現時点での結論。
 ミクシイなら、読む人がいるのだから、読み手に伝える事を重視する、というのが意識にある。その分、ミクシイの日記の内容は、現代やナノディストロの活動や、観に行ったライブの事などといった、自分の伝えたいと思う、触れた音楽についてを触れたままに書く事が多い。というよりは、伝える相手がいれば、反応も確かなもので身近な方がこっちも書きやすい。その分、ここの日記の場合、読もうと思えば誰でも読む事が出来て、しかも不特定。ならば、必ずしも伝えたいわけでもない日常やそれに纏わる雑感が書きやすい。尚且つ、読み手に一歩引いた状況であるなら、逆手に取れば、読み手に考える余裕を与える事も不可能ではないという事だ。果たしてどれだけの人がこの日記を読んでるかは判らんけど、だからこそ、ここの日記は、自分がその物事に対し真剣な姿勢で考える事を重視出来る、のが意識にある。要するに、簡単に言うと、通達重視か思考重視か、という自分自身の意識の違い。例外だがディストロサイトの場合だと、意識的には前述の二つのちょうど中間地点で、あるいはどちらも兼ねている。自分の思いを真剣に向き合って伝えたい、という感覚。でも、ディストロサイトはさすがにミクシイともここの日記とは、在り方も向き合い方も少しだけ違う。実は意外と大真面目。
 とは言え、すべては続けてくうちになんとなく意識して使い分けるようになっただけに過ぎないし、厳格に守ってるつもりもない。まあ、何せ器用でもないから、大まかに意識した上で使い分けなかったら、書いてる自分がバランスを見失って秩序が崩れて不自由になりそうという、ただそれだけ。せっかくの空間なのに不自由に持て余してても埒があかないから。この状態が私にとっては割とバランスが取れた、自由な塩梅。
 前置きが長くなったが、私は無力だ。ひたすらに無力だ。そんな事はとっくの間にホトホト自負して飽きた。けれど、その劣等感がほんの少し力をくれたりする。やはり「何もしないお前の何がわかる、何もしないお前の何が変わる」という言葉を聞いた時の衝撃は言い様なく相当なもので、現在進行形で多大に影響を受けている言葉だ。無論、その信念もまた自分の中で相当デカイ。無力の底にいる自分が這い上がる原動力になれるほど。何もしないまま変わらないのは、自分としても女々しすぎて死ぬほど気持ち悪すぎて非常に腑に落ちない。微力ではあるが自分が動く事で少しは変えられる事が出来るだろう、ならやるしかない。10億分の1の力でも何かは変えられる。それがそもそもナノディストロの始まり。
 やってきて判ったのは、ディストロの活動というのは意外と奥が深くて、たくさんの可能性に満ちているという事。それが、想像以上に自分の性分に合った行動であるのにも驚いた。むしろ、ディストロこそ自分の居場所なんじゃないかさえ思える。旭川の極一部の人達には時々「流浪の小さいCD売り」と呼ばれるが、この呼び名はかなり判りやすい。多分、ディストロ、と言うより判りやすい。まあ、そう呼ぶ人達の小さいの意味は大半以上が私の身長の事なのは皮肉にも丸判りだが、店舗を持たずに小規模にCDを売るディストロという行動という意味もうまく例えてる。つまり、小規模である分所謂レコードショップの流れとはまた違う風に動く事も可能で、何だって出来る。そういう意味でディストロはたくさんの可能性に満ちているんだと思う。
 何度も言うが、私は無力だ。けれど、微力ではあるものの、動く事は出来る。私にとってディストロをやってく上での醍醐味は、人間と人間の繋がりの深さは勿論だが、それに伴う「思いを伝える事」だと思ってる。私は言葉が好き、好きこそ物の上手なれというか相変わらずなかなかどうして拙いが、言葉連ねる事も好き。更に、言霊の存在も信じている、これに関しては後日書くかも。私が唯一、出来ると言えるのは、言葉を連ねる事くらいだと思う。つまり、ディストロの可能性を自分はどう行動して駆使するかというのを考えた時に、素晴らしい作品やバンドをまずは言葉にして、人と人の繋がりの上で「思いを伝える事」が出来ると思った。それが達成できれば、これ以上の喜びはない。それを楽しく思い、それをやっている。だから、この日記も書き続けている。ミクシイの日記も、ディストロサイトも同様。
 ナノディストロを始めて4年が経ち、来年には5年目を迎えようとしている2008年。初心忘れべからずとはよく言うけど、もしかすると、始めた頃より、やり続けた現在の方が強い信念が自分の中で芽生えたんじゃないかな。それを実感するに相応しいのが今年だったと思う。今年も本当に色々な事があった。とても嬉しかった事には喜び笑い、悲しい事には沈み泣く事が出来た健全な自分の総括、2008年。
 もちろん来年も新たに可能性を広めていけたらいい。無力の底から這い上がる微かな力というのは、まさに底が尽きる事がないから、全くもって甘くない、甘く見るな。