ロストイントランスレーション

 先週のサブレイトは、本当に楽しかった。そして、とても感慨深い1日だった。しかし最近、酒飲みすぎだな。いや、飲む回数は前と然程変わらないが、ヒドく酔っぱらい過ぎる事が多くなった。気をつけて。
 足元に気をつけて。足元ばかり気をとられないように。やけに滑る滑る凍る、転ぶには最適な道端。川を渡ってるかようだ。まともに歩く事すら出来ないのか、ならば、永遠に出来ないんじゃないかなあと薄らぼんやり思う、足取り不安定な道端。さすがにもう降伏。されど春が来るにはまだ遠い、なぜならまだ12月。
 まだ12月か?もう12月か?その捉え方は人それぞれ時と場合によるだろう。私は疾走するようにあっという間に時間が駆けている気がするけれども、ふと周りを見渡すと、そんな私の一瞬はとてもゆっくり過ぎているようにも感じるから、不思議でならない。歳月は経過している。結局、この寒い冬も、どうひいき目に見ても、一生のうちせいぜいあと5、60回も体験できないから今は体験しておくべきか。何にしても、ものは捉え様。そんな、2008時間旅行。
 そう、ものは捉え様だ。二年前、マイヘッドスウィムズの北海道ツアーの札幌編に同行した時の話。マイヘッドのライブを観終えてカウンターアクションの階段あたりでフラフラ一服してると、同じようにライブを観て外へ出る外人から、今のバンドは何て言うの?と尋ねられた事があった。マイヘッドスウィムズフロムトーキョー、と答えると、その外人、大爆笑。おそらく、my head swim=頭がフラフラする、の意で爆笑したのだと推測するが、何にせよ外人はいたく気に入った様子で、直前に観たライブの余韻も相俟って、私も嬉しくなり思わずニヤリとした。当然、その外人と意気投合し、暫く会話をしていたのだが、ところで今日は何を観に来たの、と外人に問うと、彼はお目当てがあって来たワケではなく、ちょうど北海道を旅行中で、近くの服屋に行こうとしたが定休日で店が閉まっていて、たまたまカウンター前の路地を通りかかったところで「音楽が鳴っていたから入ってみた」と、外人は答えた。それが何か?と言う様に。これには相当カルチャーショックを覚えた、私なりのロストイントランスレーションだった。
 もし、私が同じ状況だったら、どうだろう。どこか他国で旅行中でライブを観に行くワケでもなく通りかかった場所でたまたま何か音楽が聴こえてきた、とする。そこに入っていくだろうか?、、多分、入らないだろうな。その音楽を通り過ぎるものとして捉えてしまう、と思う。もし、あなたが同じ状況だったら、どうだろう?
 彼がどこの国から来たのか、聞いた気がしたようなしてないような、今はそれすら失念してしまったが、きっと、音を楽しむ、というそのもの自体に対して、私含む日本人とは違った姿・形で身近にあって、それが文化として、当たり前の様にそういう中で彼も生きてきたのだろう。そりゃあ、日本人にしても音楽そのものは身近に感じるものでもあると思う。でも、その存在や楽しみ方はソレとは明らかに違う。彼をはじめとして、たまに音楽を通して外人と話す機会があるとよく感じる、どちらかと言えば、どこか受身で消費的に音を楽しんでる節があるのかもね。そこが日本文化らしいオクユカシサというか、いじらしい所というか、私の先入観か?もちろん例外もあるだろうから、飽くまでどちらが良いとか悪いとか今ここで言うワケにはいかないけれど。
 音楽無くして生きれない、とかいう「言葉を愛している」割に無音でも生きれるマジョリティを見るのもうんざりだが、その「言葉を嫌う」マイノリティもいい加減聞き飽きたし、言い飽きた。そんなのわざわざ主張しなくても何にせよ、音楽はある所にはあるし無い所には無い。今生きてるのも変わりない。私は私でタワーレコードで買い物しない。韻を踏んだところで、脱線して頭がこんがらがってきたので、いい加減話を戻したい。
 結局、何が言いたいのかというと、そんな文化や先入観を越えたムーブメントが出来ていって欲しいと願う。そこで音が鳴ってるなら入って来ればいいんだし。
 そんな事を思いながら、オープンも間近で良い感じに仕上がってきたモスキトから帰宅し、記してみる。とっ散らかった、言葉遊びの空焚き、ロストイントランスレーション
 最近またよく「ベルヴィル・ランデブー」(asin:B000PGTGQS)観てる。前に見まくった時はそうでもなかったのに、今の自分にはそこにある虚無感にすっぽり入りこんでしまう。そして、皮肉にも居心地がいい。