共有と殺気を併せ持つ、新世界

 現代企画新世界が過ぎて5日経過。きっとこの瞬間は経過しないものだと錯覚すら覚えたが、紛れもなくあっとう間に過ぎていた。あの場にいたすべての人に、感謝、の二文字だけでは、有難う、の五文字だけでは、伝えきる事が出来ない思いを伝えたい、のに、言葉でどう表現すればいいものか、私には未だわからないでいる。
 しかし、私自身の、企画者としての落ち度、至らなさを痛感した、以降も深く考え込み、今に至るのだが、今になってこの場でそれをどう言おうも私の過ぎた日は戻ることがない、不様な私にはその残酷さが精々身に染みる、自分自身への戒めである。だから、これからを、戒めて、想像を絶する位もっと頑張る必要がある。留まる事なく、越えていかなくてはいけない。私はもっと行動しなくてはいけない。
 ただ、あの日、あの場にいた人達からの、良い企画だったという言葉と笑顔を見て、本当に冥利に尽きる思いだった。みんなと共に過ごし、笑いあったその瞬間が嬉しかった。そのすべては、あの場にいたすべての人達、すべての音楽のお陰だ。想像を絶するほど伝えきることが出来ない、有難う、を心から伝えたい。
 新しい世の界、共有と殺気を併せ持つ、新世界、が、そこにあった
 いつも貰ってばかりの私でも、京都から丸一日という長い移動時間をかけて、はるばる旭川まで来てくれたセオレムには、旭川で彼らなりの何かを得て、なんとしてでも京都に持ち帰って欲しいと思っていた、彼らとの別れ際、また必ずの再会を誓い手を差し伸べた時に、彼らは本当にいい表情をしていたから、何かは得てくれたと信じている。されど、私自身こそがまた、彼らとたくさんの話をして、やっぱり私自身得る事が多かった、結局、本当に私はいつも貰ってばっかの甘ったれの馬鹿タレ、だなとつくづく自覚して呆れる。
 彼らが無事に帰途に着いたという報告を聞いた日、旭川に初雪が降った、
 吹きつける冷たい風を肌で受け、ふと寂しさを感じた。
 けれど、共有した瞬間がある限り、繋がっている。それぞれの日々であっても、それぞれの場所であっても。それぞれの思いであっても。同じ空であるのは変わらない、今回は本当に有難う、お疲れ様、また会えるよ、また会おう。繋がっていけと思い、そう願う。以前、ある人が言っていたdo it together、本当にいい言葉だ。私もまた、正にそうでありたいし、これからもやっていけるといい。
 そして、いつものような日常に戻った、楽しかった日の落差から、独りでいると本当に思考回路は凹にしかならないから困ったものだ。口の端が切れる、胃が弱っている。自分自身を持て余す、当てはまるのかもしれないが、それすらもわからない、そう感じている私は一体何なんだか、、そう思いながらもう11月に突入す。