爆発するということは

 この息苦しさは貧血じゃなくて過呼吸だという指摘を受ける、知らなかった。まあ特に知ったからといってどうこうという気にもなりもしないが ふーんこれがそうなんだ、と感覚で学んだなと。
 ときどき怪我だとか体調不良などの身体的な痛みを受けた時、もしくは誰かが痛みを受けたのを見ている時。ふと、その痛覚は果たして「万人共通」なんだろうか?と思うことがある。例えば誰かが腹痛で痛み苦しんでいたとする。だけどもたとえ身近な存在であっても他の誰かがその痛みを共有することはまず出来ない。だから(さすがに個人差はあるとは思うけど)これは本当に「同じ」痛みなのか、わかんなくなる。例えば腹が痛いというのは同じでも、本当はそれぞれで痛みの感覚っていろいろ違ってくるんじゃないかなあ、なんてつい思ってしまう。現代医学を物凄く甘く見過ぎているかもしれないけれど。もし、誰かの痛みを同じように共有出来るのならば、この人の痛みは自分にしてみると死ぬ程痛いのかもなあ、もしくは全然痛くないかもなあ、とか。もしくは、自分が今感じてるこの痛みは、他の誰かにとっては死ぬほど痛いのかもしれないから自分も甘ったれたことは言えんなあ、とかぼーっとつい考えてしまう。だから、私は痛みを訴えることや伝えることに何か引け目を感じるし、痛みを擬音で伝えたとしてもその擬音に不信感を猛烈に抱くし、私か誰かの痛みの感覚を後日談として軽々しく共感することが心底から嫌になる。
 そして言いたい事はどんどん訳がわからなくなっていく。そんなこと別にどうでもいいか。
 話は変わり、mp3ウォークマンには良くも悪くも慣れてきたと思う。でもこの小ささに、何百曲も入る便利さに、使っているとよくわからなくなってくることがある。
 音楽は、形あるものなのか?
 形あるのならじゃあそれは円盤の形なのだろうか?
 感情の起爆剤は、形あるものなのか?
 形あるのならじゃあそれは円盤の形なのだろうか?

 現在の音楽のデジタル化に対することに思うことはたくさんある。けれどもそれをインターネット上で言うのもどうかと思うから、ここでは書かないことにする。だけども、今感じるのは
 それを「違う」ということを確かめるためにもライブというものがあり、もしかするとそのヒントもライブというものにあるのかもしれないな。
 まあ、今は多く書かないけども、そう思う。