またしても洗濯機を壊す日に

 自分はもしかすると既に死んでいるのかもしれないといった感覚に陥る時がたまにある。あくまで感覚的なものなので深い意味はないのだが、時々ハッとしてしまう。
 今年もまた洗面所内での「にしやまワラジ」の発生に非常に悩んでいる。つくづく暦とはあなどりがたきもので、啓蟄が明ければちゃっかり発生しはじめ、今日のように雪が降るような少し寒い日は出てこないのだから、まあよく出来たものだと思う。ともかくワラジは嫌いなんだよ。しかし嫌いだから/邪魔だから殺すという感覚ってかなりやばいんじゃないかと思い、反面いてもたってもいられずに殺虫剤を振り撒いている。それってどうなのよ。ヒトの勝手な感情によってイラナイ弱いものは消される。ヒトは簡単に死を与えることを覚える。さらには虫を殺した体で(少なくとも明日くらいは)生きて、虫を殺したその手で(洗ってはいるが)飯を食う。虫の一日はヒトの2ヵ月半強であるのなら走馬灯はどうせ今日昨日の出来事なんだろうよ。そんなことを思いながら殺虫剤を振り撒き死を与えていくのだ。要は虫を殺すなと言うよりも、殺虫によって殺すことそのものが身近になってしまうのはすごく危険なことなんじゃないか?ということ。それって擬似戦争じゃないか?大げさだと思いたければ笑えばいい。だがあながち冗談でもないことだろう?

 ま、そんな私も誰かに邪魔で殺された1人なのかもしれないがね。戦争反対。そして降伏。