海には行かなかった

 頭のなかは、静寂のような、喧噪のような。遅滞しているようで、激動のような。笑っているようで、泣いているような。眠たいようで、眠れないような。さみしいようで、楽しいような。お酒に酔いたいようで、ちっとも酔えないでいるような。いろいろとありますが、感慨にひたる暇もなく、過ぎてく短い夏の日々に、喜怒哀楽の限りを尽くした気がしますが、私自身は至って暢気に過ごしています。溶けてしまいそうな暑さも、とつぜん降りだす豪雨も。嫌いじゃないけれど。
 しばらく、間が空いてしまった。一ヶ月前から遡り、七月末の二日間にわたって開かれたカジノの夏の祭典。あのとき久しぶりに観たゴムナパースの衝撃が、いまも忘れられずにいる。最高峰まで突き上げ一気に地の底まで突き落とされる感じ。中枢神経を刺激する、あの感じ。その翌日が現代だった。全力全霊を込めて、やる事はやった、と思ってる。十分間の過酷を改めて痛感しても、全身がアザだらけになっても、ライブをすることの楽しさを心底から味わえるのが現代なのだろうな。その感覚が、私にとってバンドを続けていくことのまたひとつの糧、であるのかもしれない。ありがとう。次はいつになるかは判りませんが。また、いつか。
 そこから、律動的に体調を崩した。なんだか、とても疲れてしまって。よく判りませんが、無理と思ったものはもう無理だし、どう考えても、一度生じた溝を後にも先にも埋める事は出来なかった、埋めるまでの理由がまったく見当たらなかったのだ。ただ、堪忍袋の緒が切れる瞬間というのは、とても静かなものだと、おかしなくらい冷静で、客観的に、怒りに震えながら、その静けさを感じ取っていた。
 大なり小なり、聖域というものがあるとする。それは場所のように形づいたものであっても、時間のように目には見えないものであっても。それが何かは人それぞれで、あなたにだって、私にだって、きっとひとつはあるだろう。ただ、その聖域を勝手に壊されくのは、勝手に腹立たしい。そもそもはじめから、私の聖域なんてそこには存在しなかったのだろうか。私の、じゃなくて、あなたの、だったのじゃないだろうか。それらを愛し好む者がかき乱し、それらを憎み嫌う者が守り通そうとする。まったくもって理不尽で居たたまれない。だんだん、どんな事があっても物怖じしなくなってきた自分が怖くなってく。
 そんな事はもう、どうでもいいの。私は私のことだけでもいっぱい一杯なのに。私は私が大切に思うことだけ、考えてたいよ。そう思いながらも、風邪と共に横たわり、八月を迎えた。そういえば、夏だというのに蝉の声を、今の今まで聞いていない、とふと思う。それでも、周りの人たちは、よく聞くと言うのでした。そこで私は、聞いていないのではなく、聞こえないのだと気付いた。正確に言うと、聞こえてはいるのだが、春夏秋冬問わず私には蝉のような耳鳴りが鳴り止む事がないから、どれが本当の蝉の声であるのか判別するのが難しいのです。それはなんだか、とてもさびしい。ただ、夏が終わり、本当の蝉が死んでしまっても、私の耳に潜む蝉は死ぬことはないのだ。これから秋も冬も、私自身が息絶えるその時まで、私の蝉は鳴き続ける。
 それは、本当にさびしいことなのかな。
 灼熱の暑さのなか。結局微熱と鼻声が治まらないまま、七日はカジノへ足を運んだ。TGを観に。私自身は普段見る機会があまり無い、アイスクリーム・セヴン・シャワーズも、ノーヒッターも、老若男女のモッシュにダイブで大変盛り上がっていた。私は熱に浮かされてて、その光景を額縁の外からぼんやりと見てるような感覚だったけれど、そんな中でも、合致した行動力と説得力がしっかりと伝わってきて、非常にカッコよかった。私もまた、莫大な力を貰って、行ってよかった、と心から思う。その後も数日ほど微熱が下がらないままでいたけれど、九月十九日にモスキートで行うTGとの合同企画フォルテシモのフライヤー制作をしてくうちに、ようやく下がった。企画のことは、ミクシーやツイッターにはあげてますが、こちらにも別途で大々的に更新します。
 そして、なんだか胸騒ぎがした、ある日のこと。臨月をむかえた東京の友達から、陣痛の報せを受ける。こちらまでそわそわ、と。遠く離れてはいるけれど、ただひたすらに、南の方角へ祈りを捧げた。一日中、ニ月の東京での夫妻の結婚パーティのことを、思い返していた。ずっと、思い馳せていた。夫妻のこと、そこに集った友達の笑顔、交わした会話、スピーチでの緊張感、何もかも、味わうように反芻した。そうして、産まれた新たな生命に、感動。とてもうれしく、やらかいキモチ。改めて、おめでとう。ようこそ、世界。またはやく会いにいきたいな。
 こちらにはお報せしそびれてましたが、二十一日はモスキートで恒例DJ+バンド混合型パーティthe sugarless presentの第三回目。で、DJをした。「例の無礼講パーティ」ですっかりお馴染みになりつつある企画。今回もまた、破天荒な一夜。シュガーレスの名物、おじさん達の踊りを若者がマネしたらいつの間にかみんな輪になって踊っていたアレ、が発生して私感激。さらに、毎度のヘッドライナーであり、今回でラストとなったOIL ON CANVASでは、いつものダンス登場から、旭川伝説のバンド、マディオイルズの復活ライブもありのライドンタイム、妙に神々しい鮮烈な散開。若い子達も多く集まり、身の置き場を考えてしまう程度には私も歳を重ねてるのだな、と思いながら、何のその、大人には大人の楽しみ方があるのだと、非常に楽しんだ。ありがとうございました。なぜだか、この日を境に近頃ずっとモヤモヤと鬱屈していた気持ちがすっと去っていくのが、手に取るように判った。
 その翌日、二十二日はカジノへ。九月の企画にも呼ぶ札幌のWALKが来たので、会いに行く。企画前に直接話が出来たのも、旭川でライブを観れるのも思いがけず、嬉しかった。WALKは観る度にカッコよくなってる。ボーカルの犬介とは函館在住していた頃から、ギターのタイゾウに至っては旭川出身なので高校生の時からと、気付けば彼らとは知り合って長い歳月が経ったなあ、としみじみ思う。それゆえに、企画にようやく呼ぶことができるのは、念願叶ってのことで、感慨深くもある。彼らのそれぞれの活動を少なからずは知ってるからか、WALKを観ると、彼ら、特に犬介は、これがやりたかったんだな、というか、本当にやりたいことをやってる、と観る度に思えてくる。そして、あべしょのベースとマツナガ君のドラムがやはり改めて上手い。リズム隊が安定してるから尚更相乗して、犬介とタイゾウがやりたいようにやれてるのかもしれない。企画に併せてリリースされる、同じく企画に呼ぶ盟友KIJIとのsplit CDも上々の出来とのこと。来月、ますます、期待、高まります。この日のアナザーもとても良いライブだった、これから秋にはコンピCDの参加、そして来年にはいよいよアルバムのリリースも控え、勢いはうなぎ上り。アナザーナインノート。旭川発、いまもっとも多くのひとに知ってほしいバンドだと私は思うのです。打ち上げのあと、WALKあべしょとタイゾウと共にラーメンを食し、彼らを見送ったあと、家へと帰った。
 先週、火曜日の仕事終わりに、帰省中の幼なじみと数年ぶりに呑み。金曜日の仕事終わりには、カジノのコトと呑み。なんだか、霧が晴れたように、お盆休みの恩恵を受けつつ、八月後半にかけては、楽しく美味しいお酒を交わす機会が多かった。幼なじみは、私にとっては数少ない学生時代の友達であり幼稚園から中学までを共にした、よき理解者。いまは会う機会は少なくなったけれど。共に過ごした歳月が長いだけに、私自身のことも、私のペースも、ちゃんと判っていてくれる、有り難い存在。そこから、変わったこと、変わらないこと。いろいろとあるけど。変わったね、と言われたいような、言われるのが少し怖いような、気持ちでいた。決して子どものままではいたくないけれど、大人にはなりきれない、そんな感覚。結局今回の再会で、いつまでも変わっていないことがあると判り、安心した。
 幼なじみとさんざん飲んだあと。ありがちな感じで、小学校のグラウンドにこっそり潜入し、ブランコに乗りながら、ぼんやりと月明かりを眺めていた。あと一晩待てばの、満月に近い夜。そこには、あのころの子ども達が、そこにいるようだった。ノスタルジーが見せた、幻影だろうか。
 これらが、まぎれもない一ヶ月のあいだにおきた断片的なこと、なんだか躁鬱のようなショートサマー。雨の日も多ければ、暑さも長くは続かない、異常気象な今年の夏は、季節感があまり感じられないまま、終わりに近づこうとしている。さよなら八月。そして季節は交代し、いよいよ秋が訪れる。不安なこと、たくさんあるけれど。きっと、大丈夫。いまは、決して振り向かないで。前へと、進んでこう。
 ふっと、笑い声が聞きたくなる時がある。そこに穏やかな寝息があればいいと思う。その心が、安らかでありますように。私にもいつか来るかな、ビロードのようでまどろむようなやらかい夜が。いまはなんだかね、漠然と、未来が不安で。こわくて、こわくて。