kanetekara.

 なんだかんだ言って、(自分が音楽を聴く、という意思と行動を自覚した時の)最初に聴いた音楽の存在というのは後年になっても尚、デカいもんだと最近思う。これは恐らく私だけに言えることではないはずだ。たった一度の一瞬の衝撃は何に変える事も出来まい。ある意味では最初に聴いたそれは、私や君の人トナリを形成する力を持っていた、といっても過言ではないだろう。目には見えない名刺のようなものだ。
 そもそも、人間は誰もが胎内で羊水の音を聞いていて、恐らく共通して最初に聞いた音であるはずで、羊水の音への反逆なのか知れないが、それが成長と共に意思を持って様々な音楽を聴きだすんだから面白いし、不思議なもんだ。そういう意味では、胎教もシリアスな真実味が出てくる。
 例えばもし、今は自分の中で否定した音楽であろうとも、それに対する無意識な反逆で、今その耳で聴いている音楽に辿り着いたのかもしれない、黒歴史では無いさ決して。裏を返し、例えばもし、過去も今も愛しくてたまらない音楽であろうとも、その揺ぎない音を追い続けることが出来る思いがあるだけで今現在の自分自身が構築されているのかもしれない、無進歩では無いさ決して。どちらにしても誰が否定できよう。
 ただ、私はそのたったひとつの音楽に執着し過ぎるあまりに、「その音楽のみ」に囚われて聴き続ける行動はあまり好ましくは思えない。あくまで個人的に、、という言葉は我ながら無責任だが、あくまで個人的には。それは自らの可能性と感受性を殺すように思えてならない、せっかく可能性や感受性を広げさせられる(或いは、そう訴えているような)音楽を聴いているのにそればかりに囚われていたら狭まって本末転倒だろう。しかし、それもまた、酷だがその人トナリを形成したひとつであるのも事実であるはずだ。それだけ、秘めた力の重みがあるということなのだ。
 そこで、私はここ最近、音を通して若い世代と関わる機会が本当に多くなったもんだ、と日頃実感しているわけだが、個人的にもディストロやバンドをやっている、ほんの僅かながらであろうが音楽を「伝える身としての様々な責任」というものを考える。本音を言えば、そんなもん知ったこっちゃなく、私が私の人トナリがあるんだからある限りは私の好きにやっていく、と言いたいところだし、押し付け・干渉しない程度にそれなりにやるけども。それだけ、伝達が持つ力と重みがあるという事を、ヒシヒシと、改めて、感じていたりする。
 という事を、昨晩、私の早とちりでディストロサイトの最初の頃のデータ(扱った音源でいえばblindを扱う以前の作品すべて)をうっかり消去しかけ、己の肝を極寒まで冷やす思いをした際、これを機会にと最低限のバックアップをした最中に、ふと思い立って久しぶりにディストロを始めたばかりの頃に聴いていた音楽や、最初の頃に扱っていた音源を片っ端から聴いている時に気付いた。その当時は、移動時にCDウォークマンを心底から愛用し、1日ごとに1枚の音源と共に移動を過ごしていたとはいえ、音とはあまり関係のない大学時代の個人的な出来事まで次々と思い出すのは良くも悪くも厄介なものだったが(これもまた音楽の持つ力か?)懐かしくもあり、当時があって今に繋がっているのだと思えた。音は数珠繋ぎ。うん、改めてそうだと思う。
 そういう事で片っ端から聴いた中で、RISE AND FALLやclimb the mindなどはdo itで長年の念願叶い、いよいよライブを観ることが出来るのが、今とても嬉しくて仕方が無い(もし当日「ILL DANCE MY DANCE」や「DENATURIZATION」「繋がる瞬間にシャッターを」の収録曲をライブでやられた日には、間違いなく鼻血の一滴は出してしまう事請け合いだ)。
 「何故君は僕に目的を与えてくれたのだろう」
 という歌詞は当時から胸に刺さったままで、今も反復してやまないのだった。
 ディストロサイトの最初の頃のレビューを今見返してしまうと、穴があるなら入りたいほど恥ずかしい、文章ヒドイとしかいいようがないが、あえて手は加えないことにした。その当時の必死にその作品を伝えたいという思いは、今訂正することは出来ないと思うから。ただ、今でもその作品を扱う事が出来たのを誇りに思っているのは変わりない。数珠繋いで過去があって今があるんだから。それだけでいいじゃないかと。
 休み呆けが一向に滅亡しない日常のことを言えば、先日仕事用以外の靴が見るも無惨な姿に変貌しとうとう全滅した(今だから言う、原因は酒だ)。仕方ないので仕事じゃない時も仕事用の靴を履いている苦痛。だから新しい靴が欲しい。4分の3ほど、滅亡寸前の欠けた奥歯を治療するために歯医者に通う。通院時にありがちな「その治療は次にします」と言うような次の診察に後回しにするスタイル、アティテュード、が大変、気に食わない。だから私は病院が大嫌い。病原体の根源はそこにあり今もなお燻っているというのに、治すなら治すでいっぺんに治せばいい、未来は今なんだ、と思っていたのだが、初診2時間の治療を受けた後に、ほとほと疲れ果て我改める。これはさすがにいっぺんには治療は出来ない、医者も患者の体力とちゃんと向き合っているのか、と身をもって実感する。体力の低下も実感する。医者に謝罪。でもやっぱり病院は嫌い。
 欠けた奥歯も来週抜いてしまうので滅びる*1、体力もいつの間にか滅びている。我が家の壁のリフォームが開始された今前の壁が滅びている。普段靴は滅びた。今年の夏も滅び、寒くなってきた。色々と滅びゆく日々、休み呆けだけが強い日々。
 願いましては(奥歯以外は)修復可能であり、新しく宿っていくんだろう。生きるのは楽だなあ、そんなもんだよ。どう解釈されても構わない。

*1:後日談:結局修復のみで抜くこと無く生き残りました。侮るなかれ歯科医学