それぞれの多様な破壊的想像を

 私は自分が真摯にやっている事に対して、見た人に軽く考えられたり誤解されてしまうと凄く落胆してしまう。もちろん、人それぞれ好みがあるし、それぞれの考え方があるべきだと思う。そう思ってくれて構わないし、これが悪いわけではないけど中途半端に興味示しといてその人にとってそういう風にしか思われてないんだとどうしても心外に思ってしまう。かと言って、自分の考えを無理矢理押し付けてしまってはまったく意味が無い。じゃあ、どうやったら誤解なく伝えることができるのか。これに関してはこれまでずっと模索し続けている問題であって、一生かけても本当の答えが出ないかもしれない。(無論、自分の力不足というのもあるだろう)
 例えば、女の裸体の写真があるとする。何も前情報など無くそれを見た人は性的なものとして考えたり、もしくは芸術として考えたり、人それぞれに考え方が違ってくると思う。だから別にどう思ってもそれはそれでいいと思う。どっちがナンセンスだとかそういうものさしも必要ない。しかし根本から違うお互いの考え方を誤解も嘲笑もなく本当に理解しあうのは簡単なようで凄く難しい。最初に持ったイメージというのは強烈だろうからね。それじゃあ考え方が同じ奴にだけわかればいいのか?そういうわけじゃない。それでは何もならない。要はひとつの概念に捕らわれがちな事がどうなのかということなんだ。
 話は変わり、日曜に音江にある画家の高橋要氏のギャラリー向陽館に行った。建物そのものはかつて小学校の校舎を活用したスペースなんだそうで教室を巡っていくように順路は続く。氏の絵画はやがて四角形のキャンバスではおさまらず変形して膨れて上がっていた。中でも「想像の海」という連作が、凄い錯雑と侵蝕した世界でとても惹かれた。
 ここ数日、疲れ目に困っている。視界が霞んで気だるさが襲い掛かる。たぶん私のこの2つの目玉が私の脳であり、目で物事を考えている事を思い知る。