静脈

 1年前の自分にも言い聞かせてやりたいものだ、と思う。けれど、何年後かにはいまの自分も言い聞かされているんだろうな、きっと。その体たらく。そして、いまの自分は過ぎたことを思ってもどうにもならないよ、っていまの自分に言い聞かせるんだ。過去の自分、いまの自分、未来の自分。余裕のない感受性の送受信の軸はいつも自分で、とても窮屈で、滑稽だ。
 ひとり歩いて帰る。と考えるのは、まったく余計なことばっかりだ。もうだめだ、終わりにしようと思うのに、次に朝の光を頭上から浴びる頃には忘れちゃう。単純過ぎる自分の脳の構造を、ばかじゃないのと言ってやりたい。単純すぎる。それでも単純なほどに、私は元気で、生きてる。ただ外が寒すぎるだけ。雪が降り、雪が積もって、冷える肉体はその雪を踏んで歩いてく。長く歩いただるさが冷えた肉体に残る。そして繰り返す日常。24時間。
 それを紛らわして呷ってしまうように、饒舌になる。
 そんな中で、ディストロのことをする・バンドの練習・ライブを観るなどで周りで鳴り続けるあらゆる音と音が、そんなモヤを消してくれる、脳はやらかくなる。ただそれが楽しい。いや、「楽しい」ということばがこの感覚に追いついてない。どう言おうか。あぁそうだ、音楽以上。うん、この日記ももっと書こう。
 私が描く絵は、手に入らないものばかりが被写体になってしまうと気が付いた。実にないものねだり極まりない、そんな理想だけを追い続けて、自分の目の前には何がある?そこから何が見える?だから、私の絵はいつも何かが足りないんだ。まず目の前を見ようとしない不器用な人間に理想を追うことなんてできるんだろうか。ことごとく自分を図々しく思う。理想より目の前の幸せを思えばいいのにな。
 隣家の取り壊しが確定した。私にはあの隣家に絶対に忘れたくない思い出がある。それはここに書くより紙媒体のほうがふさわしい思い出だろう、客観的に見ればどうってことのない思い出だろう。家が崩されて変わる風景と共に、自分の思い出も壊されてしまいそうだ。あの家がなくなる。なにもかも。なくなってしまう。私には怖い。