自分自身に対して最も変えたいことが、最もうまいこと変えられない。
 眠りにつく方法がうまく思い出せない頭は爛々としてばかり。相変わらず身体はダルイ。この荒みをどうにか奮い立たせてみようと、久しぶりにものを作ることを思い立って納屋に篭ることにした。例えば受験とか課題とか単位とか将来とか、そういった類の何かが背後になんにも無い状態でものを作るのはそれこそ久しい。そして驚くべきことに、なによりも背後に何も無ければ尚更に自分の好きなように出来るし、面白いくらいやりがいを感じている。あー今まで私は何に括られていたのだろう? ふと、そこら辺にある物を寄せ集めては何かと色々と作っていた幼稚園の頃の感覚を思い出した。今もその感覚は変わってなかった。それ以上でも以下でもない、ただ純粋な思いで、ものを作るという行為や工程が好きだというそれだけ。それだけだが、それは時に昇華にも抵抗にもなりえるんだろう。
 領域を立てるのはある意味少し悲しい。しかしこの地に私の帰る所があり君の帰る所がある限りは生きることに染み付いていることだから、こればかりは仕方ないかもしれない。虫がそこら中に棲んでる外や納屋でものを作っていると私は彼らの領域を侵しているのかもしれないな、と思うことがある。私は本当は虫は苦手で、見れば混乱してものを作ることに集中できなくなる。だから出来れば近くの場所に虫がいるのは本当に困る。だからといって私が彼らの領域を侵しておきながら彼らを殺すのはおかしい事だと思う。でも、そうこうして足元を見れば黒と橙色の毛虫を踏んでいた…本当に申し訳なかった。子供の頃この毛虫は毒があるなんて聞いたけど果たしてそれは本当なんだろうか。毒のあるものがこんなにも身近にあるものだろうか。死に絶えた毛虫はやがて徐々に姿を変え身を縮めた、まるで土に還る準備をするかのように、壮大な彼らの昇華のように。恐ろしかった。怖くなった。これは「生き物を大切に」とかそんな彼らに対する明らかに見下した優しさだとかそんな陳腐なものじゃなくて、ひとつの殺生の話だよ。
 一方、人間も空気の篭った納屋の中でペンキを塗ればさすがにシンナーに浸った脳は限界がやってくる。だから外に出てペンキを塗ることにする。外でものを作っていれば普段はすれ違っても声を交わすこともない近所の人や新聞配達の人などに声をかけられる。今思えば集中して耳に入ってなかった場合もあるかもしれないが。日曜大工を趣味とする人はこんな風にコミュニケーションを取ってるんだろうか?1人でものを作るのは良くも悪くも当たり一面の孤独と戦う。少し黙っていた分だけ返答する自分の声を自分の耳越しで聞くと、あれ自分はこんな声だったかななどとハッとする現象もおきる。身体が浮付く。
 そうして郵便屋から自分宛の郵便を受け取る。月曜日は東京のIRAの店番用に作られたDaily Life zine vol.2.5、金曜日はディストロで扱っているROのデモの再入荷分、土曜日はyさんから東京のthymoのデモ音源。こうやって郵便物が届くのが本当に嬉しい。Daily life vol.2.5はすべて手書きで綴られた制作陣2人のコラム。手書きのzineを読むのは久しぶり、Daily lifeは毎号言いたいことや書きたいことや伝えたいことそれらを自由に書いていて、私は凄く好感を持っているのだけど、今回は手書きで綴られたことによってそのメッセージ性さが尚更強まり、書き殴ることに秘めた伝達の力を知った。 そして、thymoのデモ音源はyさんのご厚意で送っていただいた。札幌の風を感じさせる痺れる音。とにかくキウイが大好きというのは今も外せないことで、だからこそこのギターを本当に感慨深く感じる。そしてボーカルをとるogさんは全然想像つかなかったので、とても新鮮に思えた。ライブが観てみたい。札幌でもやって欲しいなあ。